vol.023|教会に行ってみて感じたこと。


パースから、こんにちは。


パースに来てから2週目の日曜日、カトリックのお友達に「一緒に教会に来ない?」と聞かれて、そうだな、経験として行ってみるのもいいなと思ったので「行ってみたい」って答えた。


だけどね、人生で初めて入る教会。最初は足取りも軽かったのに、いざ教会を目の前にするとなぜか心構えをしている自分がいて、中に入った瞬間周りが見渡せなくなった。そのまま思わず飛び出してしまった。なぜか、涙が溢れてきたのでこの日は結局、部屋に帰って休むことにした。


この日は特別な日だったらしく、人もいつもの4倍(200人)くらいいたらしい。


それから2週間が経った先週の日曜日、朝から気分が沈んでいた日。

「今日はどうする?」と聞かれて「行きたい」と答えた日。

一緒に教会に行ってきた。


今回はその時感じたことを頑張ってまとめてみようと思う。


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私の滞在している寮がカトリックであったことは、入寮してから初めて知った。

無宗教の私は、気にかけたことがなかったから、部屋が確実に用意できる寮と言われたところに入っただけ。


入寮初日の寮内の集会があった時に「お祈りします」と言われてびっくりした。

(表現していいのかわからないけど、敢えてする)十字架と「アーメン」。

無宗教だけど、それぞれの宗教の存在やあり方には尊重しているつもりだった。だから、見様見真似で一緒になってやってみようとしたんだけど、なぜだか途中で胸が苦しくなって手が止まった。


自分の中のどこかで、何かが引っかかったのかな。

この時、何を思ったんだろう。今でもわからない。


初めて行って見たときも、感じる必要のないはずの「プレッシャー」を感じて、苦しかった。部屋に帰った後も、しばらくは涙が止まらなかった。


何もわからなかった自分。何も知らないで入ろうとした自分。お友達を裏切ったような気分。泣いている自分が情けない気持ち。


その後、どうやって入ったらいいのか、本当に誰でも入っていいのか、色々調べていたら寝ていたよ。


そんな初めての日とは打って変わって、

先週末の日曜日はどうしてか朝から「教会に行く」って決めてた。朝から気持ちが沈んでいたからかな。わかんない。お友達に「一緒に来る?」って聞かれたときは即答だった。


今回はお友達と、二人で教会まで歩いて、「みんなが立ったら立って、みんながひざまづいたら座ってればいいからね。」っておまじないみたいに教えてくれた。


入った時も、お友達は聖水を額につけてたけど、「しなくていいよ」って教えてくれた。


聖歌を歌って、その日のお祈りをして、またいくつか聖歌を歌って、神父の前まで歩いていく。


っていう流れで1時間を過ごした。神父の前まで歩く時もお友達にこうしたらいいよって教えてもらいながら。


聖歌を聞いている時は、「私が普段から聞いている曲はキリスト教から来ていたんだな。」って考えたり。聖歌の中に書かれている教えが(主に助け合い精神)心に響いた。


渡豪する前に日本で「沈黙-silence-」という映画をみて考えた「神を信じることの意味」も蘇ってきて一人で考えを巡らせていた。


映画を見ながら「神を信じるからこそ苦しむこともあるんだ」と感じたけど、「神を信じるからこそできるsacrifice(犠牲)もあるんだ」と考えていたこと。「神を信じるってなに」「神がいることって何」「自分は無宗教なのに自分の中に神がいるって今まで信じてきたけど、それって一体何」なんてことを色々考えてた。


教会に行って、聖歌の言葉に集中して聞いていると心が洗われる気がした。それくらい、神の教えがとても人に優しくて。「あぁ、この神を信じることで常にその優しさを意識できるんだな」って感じた。


そう感じたら、なんだか、自分が無宗教であること。

キリスト教(今回はカトリック)について今までより少し深く知れたこと。

みんながどうやって宗教を決めているのか。

(もちろん、代々受け継いでいる宗教もあるだろうけど)

どういう場合に人は宗教を変えよう、宗教に属そう、と思うのか。



またいろんなはてなが浮かんできた。



りーのすけは、これからも少しずつ、「知らないこと」を「なるほど、わかった」に変えていこうと思う。




りーのすけ

(写真はマティルダ・ベイにてみてきた朝陽)

2017年3月19日


liinosuke

りーのすけの「毎日付箋」 面白いこと、不思議に思ったことを忘れないうちに書き留める。 -liinosuke daily- all about what I find interesting

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