vol.033|「ヒンズー教のお経は何語なの?」から開いた新しい世界観への扉
パースから、こんばんは。
ちょうど一ヶ月前に初めて教会に行ってみて感じたことについて書いたけど、今回はヒンズー教の友達と話していて感じたことについて付箋。
「ヒンズー教のお経は何語なの?」という素朴な質問から開いた、新しい世界観への扉とは。
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宗教に関してはずっと興味があったのは、きっと、小学生の頃からいろんな宗教について学んできたし、祖父母が宗教に属しているからっていうのもあるんだろうな。
りーのすけは無宗教。
数年前、なんとなく宗教について意識し始めた頃、毎年お正月になると参っていた神社も「宗教に属していないから行く必要はないし、行きたくない。」と頑なに拒み続けたのを覚えている。
でも最近、「日本の宗教」という授業を大学で履修したり、キリスト教・カトリックに影響された映画をみていたりすると、宗教の多様性、それぞれに考え方があるけれども思っていることはどこかしら似ていて、お互いが違う宗教に属していてもお互いを尊重しあえたらそれでいいのかなって。
宗教の違いで敵味方になることはないし、正解も不正解もないんだから、宗教に属していても属していなくてもいいのかなって。
そう感じられるようになった今、オーストラリアに来た今、無宗教も含めたいろんな宗教の人がいる中で生活している今だからこそ考えたことがある。
それは「宗教に属していない自分への違和感。そして、属せる宗教があるのなら今がそのチャンスかもしれない」ということ。
初めて教会に行った日、あの心が救われる感じ。
「人への思いやりの気持ちを忘れない」「神に生かされている」というようなざっくりとした思想しか知らないから今度は聖書を読んでみたいなって思っていた時に入った2回目の教会。
実際には2時間あったミサが1時間くらいにしか感じられないくらい清々しい気持ちだったこと。
あぁ、早く聖書読みたいって改めて思ったよ。
でもね、そう焦らなくてもいいのかも。
たまたまヒンズー教の友人も一緒にミサに参加したんだけど、彼の宗教を調べてみたら「もしかしたら、今のりーのすけは宗教に属することに執着をしているのかもしれない」って思ったよ。
ある夜、ヒンズー教の友人と座って話をしている時にふと、質問したくなった。
「ヒンズー教のお経は何語なの?」って。
何語なのかなって思っただけだったんだけど、それ以上に自分の宗教について話をしてくれた友人。
その中で、ヒンズー教についてまた少しだけ、理解が深まったと思う。
「人生は奇跡の連続。のように見えるけど結局は定められていた運命。」「人への思いやりは忘れない。良いも悪いも、前世の行いの見返りは必ず返ってくる。」というような思想。
いつも、
「人生なるようになる」"Life is meant to be"
って思っているし、
苦しい時、難がある時はいつも「神様は自分に越えられる壁しか作らない」って考えているりーのすけの思想に似ていてびっくりした。
その話をしたら友人はね、こう話してくれたよ。
「宗教は、属しているか属していないかというよりも神様との関係をどう築くかなんだよ。」って
なるほどな。
確かに、同じ宗教の人でも、神様との関係というのは人それぞれだし、どこまで信仰するかというのも自由。だから、別に今すぐ宗教を決める必要もないし、宗教に属していないと自分が信じる神様がいちゃいけないということのも間違いなのかなって思ったよ。
あぁ、考えることがいっぱいあって頭ぐるぐる。
でも、新しい世界観が開いたから、友人と話せたこと、そして話をしてくれたことに感謝です。
りーのすけ
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